サクラマスの種類、分類
サクラマスとはヤマメの降海型、北海道、東北、本州の神奈川県箱根以北及び北陸、山陰、九州の一部でも遡上が確認されている。
特に北の地域ほど、ヤマメは降海性が強いので東北全域、新潟、北陸地方の河川が主な釣りのフィールドとなる。(北海道では河川での鱒釣りは全面禁止されている)
又、サツキマスとはアマゴの降海型で天然での分布域は神奈川県西部以西本州太平洋岸、四国、九州の瀬戸内海側河川の一部となっている。
サクラマスは四つの亜種に分類されている。
①ヤマメ/サクラマス Oncorhynchus masou masou
②アマゴ/サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae
③ビワマス Oncorhynchus mosou rhodurus
④タイワンマス Oncorhynchus mosou masou formosanus
*分類学では種が基本的な単位であるが種より下位の分類単位として亜種がある。ある種と別の種を交配しても子孫はできないが,亜種間では交配可能で子孫もできる。
よってヤマメ(サクラマス)とアマゴ(サツキマス)交配が可能なので人の手による無計画な放流によりヤマメとアマゴの混血、ハーフが各地の川で見受けるようになった。
ヤマメ
パーマークと呼ばれる斑紋が美しい、日本特有の渓流魚。国内はもとより、海外でも「ヤマメトラウト」として評価が高い。イワナよりも水量の安定した、渓流部から中流部に多く生息する。イワナが特に物陰を好む「陰」の魚であるなら、ヤマメは主流を好む「陽」の魚であるといえる。流れの中心に定位して、流下する水棲昆虫を好んで捕食するので、規模が大きく水量の多い中河川や大河川では、ミノーやスプーンで、大胆にダウンクロスで狙う。
サクラマス
サケ科サケ亜科サケ属 40~70cm
降海したヤマメが大型化したもの。約2年間淡水域で過ごし、海に下り1年を過ごした後、母川に回帰するパターンが多い。河川に上り産卵した後は朽ち果てる、遡上時は捕食活動を行なわないためか、過去にルアーで釣るのが難しいとされていたが、釣法の発展やルアーの進化により、昨今では河川ゲームの王様的存在といわれる、下のような幅がひろいサクラマスは特に板マスと呼ばれている。
アマゴ
サケ科サケ亜科サケ属 15~30cm
果敢にルアーを追うゲームフィッシュ。ヤマメに酷似しているが、測線の上下から腹部にかけての朱点でヤマメとは容易に区別ができる。しかし棲み分けのなされない放流が災いしてか、ヤマメと交配して、朱点がなくなってしまったものも場所によっては見受けられる。こうなると完全にヤマメである。一般には伊豆半島以北がヤマメ、以南がアマゴの生息圈といわれる
が、これもいきすぎた放流によって、あいまいになりつつある。
サツキマス
サケ科サケ亜科サケ属 35-50 cm
アマゴの降海型なので伊豆半島以南に多い。全身が銀色であるが少しだけ背部に赤い小さな点がある。フィールドとしては長良川が有名であったが、河口堰建設に伴い数は減少してしまった。海だけでなく河川から湖に落ちたスモルト(大型化するべく銀化した若魚)もサツキマスとなる。これはサクラマスも同様である。遡上して産卵を控えると、みごとな朱紫の婚姻色となる。特長はサクラマスよりは小型で銀毛しているがパーマークは消失していない。
ビワマス
ビワマス(琵琶鱒、学名:Oncorhynchus masou rhodurus、英:Biwa trout)は、サケ目サケ科に属する淡水魚。日本の琵琶湖にのみ生息する固有種である。産卵期には大雨の日に群れをなして河川を遡上することから、アメノウオ(雨の魚、鯇、鰀)ともよばれる。
サクラマスと同じくヤマメの亜種であり、DNAの特徴も外観もサクラマスに近いが湖沼陸封期間が10万年と長かったことから、サツキマス(アマゴ)と比較すると海水耐性が失われスモルト化した個体でも海水耐性は発達せず、100%海水では死滅する。
タイワンマス
サラマオマス (Saramao masu) とも呼ばれる(タイヤル族サラマオ村落の鱒」の意)。中国語では桜花鉤吻鮭という。現在の生息地はタイワンの七家湾渓の約5kmの区間のみになっている。形態は吻端から尾鰭中央の切れ込みまでの長さは(尾叉長)30センチメートル。ヤマメなどよりもやや小さく、黒っぽい体色。
サクラマスの生態
サクラマスの分布
①ヤマメ系サクラマスの分布:
4亜種の中ではもっとも分布域が広くカムチャツカ半島,沿海州,中国東北部,樺太,朝鮮半島東岸と南岸。北海道,本州,九州に分布しており,4亜種の中で漁獲量が圧倒的に多い。分布域の北部 ではほとんどが降海型になり,北海道では雌のすべてと雄の一部が降海型になる。また,本州北部では雌の一部が降海型・雌の一部と雄のほとんどが河川残留型になる。分布域の南部では雌雄ともに河川残留型になる。
降海型は北海道でサクラマス,イチャニウ(アイヌ語),本州太平洋側でママス,日本海側でホンマスと呼ばれる。河川残留型は北海道でヤマべ,本州でヤマメ,本州山陰でヒラベ,九州でエノハと呼ばれる。
②アマゴ系サクラマス:
体の側面に朱点があることで,ヤマメ系サクラマスとは区別される。本州と四国および九州に分布し,多くは河川残留型でアマゴまたはアメゴと呼ばれる。赤石山脈(南アルプス)の河川には大型のアマこゴが分布することが釣り愛好家の問でよく知られている。
降海型はサツキマスまたはアマゴマスなどと呼ばれ,長良川・太田川・吉野川などが産地として有名である。サツキマスの海洋生活はヤマメ系サクラマスと異なり期間が短く,回遊範囲も狭い。 また,長野県の諏訪湖にアメと呼ばれる湖沼型がいる。湖沼型がいる人工湖としては大井川水系畑薙湖,井川湖,吉野川水系さめうら湖などが知られている。
③ビワマス:
形態はアマゴ系サクラマスに近いが朱点が少なく,目が大きい。
琵琶湖および流入河川に分布する。琵琶湖流入河川で生まれ琵琶湖を誨の代わりに利用する湖沼型で,アメノウオと呼ばれる。琵琶湖では刺網で漁獲され,高級魚である。少数ではあるが流入河川で一生を過ごす型もある。
④タイワンマス:
台湾の大甲渓上流にほかのサクラマス群とは離れて分布する世界南限のサケ属である。河川残留型のみが知られ,氷河期の遺存種とされる。形態はヤマメ系サクラマスに近く,同亜種とみなす研究者もいる。台湾が日本領だった時代に「発見」された。棲息地は先住民タイヤルの居住地で現地名はブンバン。近年まで分布地の部落の名をとってサラマオマスと呼ばれてきた。現在の分布域は支流の七家湾渓だけに縮小し,個体数も減少しているが中華民国政府によって保護されている
サクラマスの回遊ルート
サクラマスの幼魚は6月中旬には三陸いなくなる、夏の日本近海のサクラマスに適した水温はオホーツク海しかなく、夏場はオホーツ海で過ごすと推測される。
サクラマスは10月には海水温の低下とともに北海道に南下する、晩秋に北海道羅臼で捕獲されるサクラマスは『クチグロ』と呼ばれている。
その後、サクラマスは日本海側に向かう群れと太平洋側に向かう群れに分かれる。
参考文献:
完全攻略 サクラマス・ルアーゲーム
二つの顔をもつ魚 木曾克裕 著
トラウト&サーモンのルアーフィッシング うぬま いちろう (著)
サクラマスの名前の由来
サクラマス 学名
国際的に通用する名前である学名はラテン語でつけられ,サクラマスの学名は, Oncorhynchus masou (Brevoort)である。
サクラマスは幕末にアメリカのペリー艦隊が日本に来た際,函館で入手した標本に基づいて, Brevoort (ブレヴォールト)という研究者が1856年に学名をSalmo masou Brevoortと最
初に命名した。種小名masouはマスの音写であろう。その後,おもに外国の研究者によって琵琶湖(滋賀県),芦ノ湖(神奈川県)などで採集された標本をもとに,亜種や生活型や発育段階,棲息地で別の種とみなされて別々に名前がつけられた。そのため種の名前は混乱を極めたが後にいくつかの亜種(アマゴ,ビワマスなど)と一生海に降らない型(ヤマメなど)も含んだmasouという一つの種に統合・整理された。
また,最初は大西洋のサケと同じSalno属とされていたが,後に太平洋のサケ属の中に入れられOncorhynchus masou (Brevoort)となった。属名が変わったので命名者の名前は内に入れられた。
外国でのサクラマス 呼び名
サクラマスの英名は, masu salmon (マスサーモン),またはcherry salmon (チェリーサーモン)である。また,サクラマスが分布している国での呼称は,中国:馬蘇大麻哈魚(マー
スーダーマーハーユイ),ロシア:cima (シーマ),韓国:松魚(ソノ;降海型),山川魚(サンチョノ;河川残留型),台湾:櫻花鉤吻鮭(インファゴウウェングイ)である。
サクラマス 標準和名
学名は世界共通の呼び方であるが,日本国内での全国共通の呼び方を標準和名という。学名Oncorhynchus mαsouに対応する標準和名は「サクラマス」である。これも学名同様,いくつかの亜種なども含んでいる。標準和名は学名と違って命名に関する規約はない(ただし,現在は日本魚類学会の提唱する規準がある)のでかつては単に「マス」とも呼ばれていた。 1960年代以前の図鑑には「マス」との表記もよく見うけられる。
サクラマスという呼び名が付いたのは明治時代以降で,名付け親は北海道庁であるという。名前の由来は桜の咲くころに溯上することによるらしい。明治になってから北海道の開拓が進
み,南樺太や千島が日本領となり,北方のサケマス漁業が盛んになった。その結果,本土ではあまり獲れないカラフトマスが大量に入るようになった。この時期に命名したのはそれまで
サケ科の漁獲物を単にサケとマスに区別していたものを,さらに「サケ」「カラフトマス」「サクラマス」に区別する必要が生じたためらしい。
現在では釣り人がサクラマスの名を使うようになり,本土の一般の人にも浸透しつつあるが,人為的な命名なので現在も混乱がある。
サクラマスの地方名
東北地方の太平洋側ではカラフトマスのことを「さくらます」と呼ぶ。カラフトマスは三陸沿岸で5~6月に漁獲され,「さくらます」の語源は6月になると婚姻色が出始めて体が薄桃色になることによる。カラフトマスの英名はpink salmon (ピンクサーモン)であるから,同じ発想である。三陸沿岸で漁師さんや市場の人とサクラマスについて話すときには,地方名の「まます」を使い,標準和名「さくらます」は使わないほうがよい。注意しないと混乱を起こすことになる。なお,関東では単に「マス」というとカラフトマスを指すことが多い。
サクラマスには三つの生活型がある。そのうちの一つ,海に降らず河川内に残るサクラマス(河川残留型)を北海道では「やまべ」,本州では「やまめ」と呼ぶが,関東では純淡水魚のオイカワのこと「やまべ」または「やまめ」と呼ぶところがある。オイカワは河川の中流から下流に棲むコイ科の魚で釣りやすいので数釣りを楽しむ魚である。これも関東の釣り人と話すときには混乱を招きやすい。
鱒の名前
鱒の地名、姓名
鱒を使用した苗字は下記のとおりであり、
日本の地名で鱒のつく地名は多くあるが昔、多くの鱒(サクラマス)が遡上してきていた場所であると想定され、そこに住んでいた人がつけた苗字として鱒渕 鱒澤 鱒淵 鱒沢 鱒村 鱒原 鱒山 鱒田 鱒川 鱒本 等の苗字があるのではないか?
同じく、増、升、枡を使用した地名、苗字もサクラマスが遡上してきた地名からつけられた名前と推定される。
中世、新潟県北部にあった奥山荘は、当時の絵図に描かれた河川が現在の胎内川に比定されているが流域の地頭・黒川氏に安堵された地名の中に鱒河の記録がある。現在の胎内川上流部、黒川村の奥胎内である。ここは飯豊山麓の西側に位置し相当数の鱒が登っていたことがわかっている。
米の収穫が十分でなかったこの頃、鱒捕りの権利は大変な財産であったのは間違いない。与えられた財産は、奥山荘では一級の財産に相当するものではなかろうかと推測している。現在、電源開発で多くの堰ができて鱒はもう登れないが、飯豊山麓から流れ下る川はイワナの宝庫となっている。
胎内川に隣接する越後荒川は中世に荒川保という国衛領であった。荒川保の川村余一は国衛領の責任者として中世文書資料に出てくる。つまり、その場所の管理者が鮭・鱒漁業の全権を担っていたのではないかと考えられるのである。この川は奥山荘のような単一の支配体系に入っていないようにみられているが、国衙領として川からの揚がりは奥山荘同様の位置づけがされていたと推測される。
岩手県遠野郷から流れ出ている猿ヶ石川流域は中世、遠野保としてあったが、北上川に合流するまでの渓谷の高台、軍事の要衝に鱒沢という地名があり、鱒沢城として、館・山城が残っている。現在の宮守村鱒川であるが、この場所は盆地となっている遠野郷の西、江刺側の出口で、猿ヶ石川には今も梁が立つ。かつてはここだけで四ヵ所の梁を立てたという伝承に接しており、北上川から入ってくる鱒の上がる川が地域の大切な財産であったことがわかっている。ちょうど峠にあたる場所に鱒沢集落があり、梁には鱒がかかったという伝承を得ている。
同じ岩手県の沢内村に隣接する柴波町は、奥羽山脈の秋田と隣接する山深い場所であるが、北上川の支流・沢内川の上流に位置し、鱒沢(現在は升沢)という地名を持っている。ここは縄文遺跡の集積地と伝承され、今も畑から土器や石器が盛んに表面採集される。
同様の例は山形県遊佐町にもある。鳥海山麓洗沢川の上流部に枡川という地名がある。鱒がたくさん上ることからマスカワの名が付けられて今日に至っているとの伝承を持つ。ここも縄文時代の優れた遺物包含地で、開発に手をつけられない場所であると、高橋石雄教育委員長が語るところである。
事実、土地改良以前に伏流水が湧き出していたタンポから、縄文時代のポイント(槍穂)が大量に出上した。この場所は現在水田となっているが、鱒や鮭の稚魚が最近までみられたと現地の古老は教えてくれた。
逆に、発掘された遺跡が立地しているところで鱒が主たる川の資源であったと推測されるところが奥三面である。奥三面遺跡群は二〇〇〇年のダム建設による水没で現在はその面影もないが、かつては鱒の溯上分布圈であった。現在の奥三面ダムのわずか下の新滝が鮭の溯上限界で、鱒はこの滝を越えて、奥三面集落の周りから、三面川源流域にまで分布した。溯上の力強さでは鱒は川魚中最高であったと伝承されている。この鱒も、奥三面の相模岳直下、赤滝がイヲドメの滝で、ここに夏には鱒が群れて溜まっていたという。
越後荒川上流部では、やはり長者原や小玉川といった熊捕りの集落まで上っていって産卵・孵化していた。ここには遺跡が数多く立地していて、やはり、縄文時代のタンパク源であったのではないかとの推測を生んでいる。鮭はここまで上ってこられなかった。
山形県高畠町は縄文時代の押出遺跡が出て有名になったところであるが、ここもまた米沢の上流部に当たり、鮭の溯上はほとんどなく、鱒の溯上圈であった。秋出県米代川の上流部の大湯遺跡も縄文時代の巨大遺跡であり、鱒の溯上域である。
福島県の会津地方は阿賀野川の上流部に当たり、田子倉川、只見川といった深い渓谷には、鱒が群れていた。檜枝岐も、田子倉も鱒捕りが大切な仕事の一つで、鱒を薫製にして温泉地に運んだものが貴重な現金収入にもなったのである。貞享二(一六八五)年の「伊南古町組郷村之品々書上帳」には、鱒滝で捕られる鱒についての記録がある。
それによると、幅10間、高さ2間。五月から七月頃、葡萄の根で作った網を滝の中段に張上り、登ろうととして飛び上かって落ちる鱒を網で受けとった。檜枝岐川流域の伊南村大桃での記録であるが鱒が源流域まで上っていって繁殖のためにここに滞在し、子孫を増やしていだかつての姿が山間の集落で記録されているのである。
檜枝岐の西側、新潟県信濃川の支流、魚野川でも鱒は上り、この支流の破間川源流域の大白川には夏の間、鱒が留め置かれるイヲドメの滝があり、ここに潜って鱒を捕った人々が絵図が残されている。
宮城県大和町の升沢は、やはり奥羽山脈沿いの山間部にあり、山形県尾花沢との間を結ぶ山間の宿場であったが、鱒が多く上ってくる川としてマスカワの名称が付いた。東和町も同様に鱒淵という地名を持つ。鱒淵川は鱒が多くいたことから付けられたと考えられている。現地に立つと深い淵が現在も残る。ゲンジボタルで有名になっているこの流域で最大の淵であり、溯上してきた鱒がこの淵に留まることは容易に想像できた。
秋田県では阿仁川沿いの合川町に増沢がある。これも鱒の沢であろう。由伊郡の芋川流域にも増川という地名がある。いずれも急流の中で深く岩をはむ場所である。
山形県では赤川の上流部朝日村の山間にその名も鱒淵という集塵がある。ここの川は赤川の支流源流部に属し、高台の集落の下手に段々になった淵の連続する川が比高差約50メートル下にみえる。ここは上流域の産卵場となる鱒の淵という位置づけのできる所で、鱒によって多くの恩恵を受けてきた。
宮城県に隣接する山形県金山町には沢の名称がマスとなっている枡沢がある。現在ダム建設によぅて堰き止められているが、鱒が多かったという。ここの水は新庄市、真室川町、鮭川村の水田を潤している。間違いなく鱒の川である。
青森県でも津軽半島の北端に全長9キロメートルの増川川がある。これも鱒の上ることから付けられたものと考えられている。
このように、鱒の地名は山間部、急峻な山の中にあることが多く、地元の人たちが呼び習わしている場所まで探せば、鱒地名は相当な数に上ると考えられる。この魚を利用してきたの山間に住む人たちであった。
約50年前の高度成長期に建設されたダム、公害等で日本の川は破壊されたが徐々に戻りつつある、隠れたポイントが昔の地名から発見できるかも・・・
引用文献:(鮭・鱒〈1〉 (ものと人間の文化史))著者:赤羽正春
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